2008年12月8日月曜日

4支部合同研修会

武蔵野法人会小金井四支部合同研修会 平成20年12月8日(月)





芝増上寺






新年を迎える準備で化粧直し中の増上寺を参拝しました。
参加された皆様の善男善女の写真です。


増上寺(ぞうじょうじ)は、浄土宗の寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と言います。
空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の明徳4年(1393年)、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地の芝へ移された。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。
なお、延宝8年(1680年)6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。
また元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良上野介が勅使饗応役の浅野内匠頭に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという逸話が忠臣蔵のドラマなどで有名である。
明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち明治7年(1874年)1月1日排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。
太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。
東京タワーの建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。
なお、この付近の町名や地下鉄の駅名に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。
三解脱門(さんげだつもん、重要文化財) - 戦災をまぬがれた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。

大殿 - 昭和49年(1974年)の再建。




徳川霊廟
増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠家宣家継家重家慶家茂)が葬られている。
第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝建造物に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らない貴重なものであったが、昭和20年(1945年)の空襲で建造物群のほとんどが焼失した。現在は台徳院霊廟の門4棟と、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)を残すのみであり、それらも保存状態の悪さが目立つ。
焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されている。
台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)
台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(以上3棟はホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山不動尊(西武ドーム前)に移築されている。)
有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)柵で仕切られているが、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しい。
これらの霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された。墓所は安国殿裏手に移転している。現在の増上寺徳川家墓所の入口の門は、もと文昭院霊廟の奥院の宝塔前中門だったもの。秀忠夫人崇源院霊牌所の一部は鎌倉建長寺に移築された。霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。なお、現在増上寺に隣接する芝東照宮はもと家康を祀る増上寺安国殿であったが、独立して神社化された。安国殿は増上寺の中でも信仰を集めており、増上寺はこれに反対したが、独立を阻止できなかった。
現在の霊廟への被葬者は下記の通り。2代将軍秀忠夫妻(台徳院・崇源院):台徳院宝塔は戦災で焼失したため、崇源院宝塔(石塔)に合祀されている。門より向かって右最奥部にある。
6代家宣夫妻(文昭院・天英院):青銅製、入口より向かって左最奥部にある。
7代家継(有章院):石塔、入口より向かって右・秀忠夫妻墓の手前。
9代家重(惇徳院):石塔、家継墓の手前。
12代家慶(慎徳院):石塔、入口より向かって右最前部。
14代家茂(昭徳院):石塔、入口より向かって左・家宣夫妻墓の手前。
家茂夫人和宮(静寛院):青銅製、家茂墓の手前。
合祀塔:石塔、入口より向かって左最前部。家宣の父・綱重(清揚院)、5代綱吉の生母・桂昌院、11代家斉の正室・広大院、13代家定の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院殊妙院、その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していた。現在の合祀塔は、もと月光院のもの。
増上寺での参拝を終えてから柴又の帝釈天に行きました。
参道にあるえびすやで昼食を食べてから帝釈天を参拝しました





柴又帝釈天
柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗寺院の通称である。正式の山号寺号は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)である。
江戸時代初期(17世紀前半)の寛永6年(1629年)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』をはじめ多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として知られた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終焉に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称でもっぱら知られるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の説明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬自ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の再建である。二天門、帝釈堂などは彩色を施さない素木造のため一見地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。

二天門
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作と思われ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺大阪府堺市)から寄贈されたものである。
帝釈堂
二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。
祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。
釈迦堂(開山堂)
江戸末期に建立された、寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。
大客殿
本堂裏に位置する。昭和4年の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。

ここで帝釈天の講釈!
帝釈天(たいしゃくてん)は、仏教の守護神である天部(てんぶ)の一つ。バラモン教ヒンドゥー教ゾロアスター教の武神でヒッタイト条文にもみられるインドラと同一の神。釈提桓因(しゃくだいかんいん)とも称する。釈は字(あざな)、提桓因は天主のこと。梵天(同じく仏教の守護神である天部の一つ。古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたものである)と一対の像として表されることが多い。阿修羅の娘である舎脂の夫
帝釈天の名はインドラの名前のサックロ・デヴァーナーム・インドラ(Sakro Devanam Indrah)のうち、サックロを釈と音訳したものに、デヴァーナームを天と意訳して後部に付け足し、インドラを帝と意訳して冠したもの。本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった。四天王などを配下とし、須弥山の頂上・忉利天の善見城に住むとされる。インドにおける仏伝図様においては、釈迦に従う帝釈天の様子が描かれることがある。
涅槃経巻33や大智度論巻56には、帝釈天が人間だった頃の名前は憍尸迦(きょうしか、Kauśika)であると説かれている。かつて昔にマガダ国の中で名を摩伽(まか)、姓を憍尸迦という、福徳と大智慧あるバラモンがいた。彼には知人友人が32人いて共に福徳を修して命終して、須弥山の頂の第2の天上に生まれた。摩伽バラモンは天主となり、32人は輔相大臣となったため、彼を含めた33人を三十三天という。これゆえに釈迦仏は彼の本名である憍尸迦と呼ぶという。また、このために彼の妻・舎脂を憍尸迦夫人と呼ぶこともある。
日本では、頭上に宝髻を結び、中国式の礼服を着た二臂像として表現されることが多い。また、着衣下に甲冑をつけることもあり、手には金剛杵や蓮茎などを執ることがある。
密教においては、一面二臂で、冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には独鈷杵を執る例が見られる。また、白象にまたがった姿でも表現される。
日本における帝釈天
日本最古の遺存例は、法隆寺玉虫厨子(飛鳥時代)に描かれた「施身聞偈図」(せしんもんげず)に見られるものである。同寺の食堂(じきどう)には梵天・帝釈天の塑像(奈良時代)が安置されている(現在は大宝蔵院に安置)。東大寺法華堂(三月堂)には、乾漆造の梵天・帝釈天像(奈良時代)がある。唐招提寺金堂には、梵天・帝釈天の木像(奈良時代)が見られる。京都・東寺講堂には、密教系の白象に乗った木像(平安時代前期)が安置される。
日本においては庚申の日を縁日とする。
帝釈天を安置する寺院としては、映画『男はつらいよ』で著名な東京都葛飾区柴又帝釈天(題経寺)がある。18世紀後半に題経寺の本堂を修復している際に、紛失していた帝釈天の板本尊が発見され、その日が庚申だったことから、庚申の日を縁日とするという(詳しくは柴又帝釈天を参照)。

帝釈天での昼食、参拝、買物を終えてから本日のメインイベントの羽田空港JAL整備工場見学に向かいました。

到着が早かったので、時間まで教室で飛行機の話を聞きました。
往年のCA(キャビンアテンダント)!キット現役の頃には、スチュワーデス(今では差別用語とされます)と呼ばれていた方から,物理の理屈を解りやすく組み入れた飛行の仕組み等を聞きました。
あまりにも上手な説明に、私も、自分の仕事でも、この様に難しい事柄も説明する事が出来る様になりたいと思いました。
説明を聞いた後で、展示されているコクピットや部品を見て、にわかキャプテンやCAに変身された方もいました。
社員用の売店で買物をしてから整備場内見学です

ここで、受けた講義の内、私がまだ覚えている飛行姿勢の数字です

離陸する時の角度は、15度で上昇して水平飛行になった時も2度程の角度があります。着陸するときは、飛行機の揚力を保つ為に主翼のフラップを下げて翼の面積を広げ角度を5度程保って着陸をします。
他にも、飛行機の寿命は、25年ほどが経済運航期間として考えられています。JAL,ANA等は15年程度で新しい機体に交換しているそうです。ちなみにインドネシア航空では10年で新機に交代しているそうです。
堀キャプテンの勇姿

点検中のエアバスA300


エアバスA300を背景に記念写真


夕陽を背景に着陸直前のJAL MD-90



機首両脇に見えるひげの様な物は、ピトー管と呼び圧力差を利用した速度計測器です。

整備場見学の次は、浅草の米久で牛鍋の夕食です。
米久に向かう途中で浅草寺を見ながら夜景の浅草を楽しみました


浅草寺(せんそうじ)は東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院である。山号は金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。


寺伝によると推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがありこの頃に寺観が整ったものと思われる。

浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見である。近世には徳川家の祈願寺に定められたこともあり、関東でも有数の観音霊場として多くの参詣者を集めた。

江戸時代後半には境内に「仲見世」の前身である商店や芝居小屋が設けられ、大道芸人が集まるといった庶民の娯楽センターの役割も果たしていた。そうした傾向は近代以降も引き継がれ浅草は庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治初期には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の観音堂、五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし地元商店街のPR活動によって徐々にではあるが過去の賑わいを取り戻しつつあり下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は善男善女で賑わっている。ただし夜間(19時以降)における仲見世や六区の閑散さは過去の殷賑ぶりとは隔世の感がある。

雷門

表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業寄贈の大提灯がある。年に一度三社祭と台風到来の時だけ提灯が畳まれるが、平成20年(2008年)の三社祭は宮出しが無いため畳まれない見込みがある。

宝蔵門

雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に仁王(金剛力士)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。

耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したものでそれらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。

本堂

本尊の観音像を祀るため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。

内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。毎年12月13日に開扉法要が行われるほか特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の左右には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右には不動明王像と愛染明王像を安置する。

五重塔

再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側の寛永度三重塔付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。現在、その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれている。

二天門(重文)

本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。

浅草神社(重文)

本堂の東側にある。浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。詳細は浅草神社を参照。

伝法院

宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。一般には公開していない。

このほか境内には多くの仏像、記念碑等がある。平成17年(2005年)には秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本の発行部数が1億3000万を突破したことを記念する石碑が浅草神社に建立された。これは同作品に浅草神社が登場した縁によるものである。



 






これから米久での夕食です。





実は、この写真は食事がほぼ終わってから撮りました。


のんびり写真を撮っていると私の取り分がなくなりそうだったので箸の方が先にすすみました!霜降りの美味しい肉だったのですが、何処にも写っていません。あしからず!今回は、幹事の堀社長様に大変お世話になりました。おかげさまで、参加者一同大変満足な研修になりました。法人会も、これから公益法人改革やサブプライム問題に端を発した金融不安からの不況の波が襲ってくる等、困難な状況に直面する事と思いますが、武蔵野法人会の中でも、まとまりの良い小金井四支部ですので、皆様で力を合わせて困難に立ち向かい、元気な姿を示していくようにしましょう。